運転適性テストの思い出

 はるか昔の思い出になってしまいますが、運転免許をとりにいったとき、自動車学校で運転適性テストという心理テストのようなものを受けたことを記憶しています。詳細は覚えていないのですが、強いストレスを感じているときには、判断を誤りやすくなる傾向があるので、そういう時には運転を避けるべきであるといったような結果であったように覚えています。その時はそんなものか、と思う程度でしたが、職業人生を通じ、しばしば、上記の結果を思い出すことがあり、これには大きな示唆があるのではないかと思うようになってきました。

 我々の職業は基本的にはトラブルを扱う職業ですので、考えようによっては恒常的にストレスがかかっていますし、そのような状況ですから物事が思ったように進まないといった事態も稀ではありません。そういうときに強いストレスを感じて判断を誤っていては、当然のことながら事態はますます悪化します。そうならないために、重要なことは、「事前の想定」と「割り切り」ではないかと思います。悪い目が出たとしても、それが「事前の想定」の範囲内であれば、多少なりとも冷静になれますし、利害得失の検討も間違いにくくなります。また、「割り切り」というと言葉の印象はよくないかもしれませんが、そのような事態が起こったことが自分のせいでない場合、我が身の不運を嘆いたり、誰かに毒づいても物事がうまくいくわけではないですし、自分に落ち度があるとしても、それを責めることで起こったことをなかったことにできるわけではありませんし、たいていの場合、事態も良化しないように思います。そうであれば、トラブルのさなかにおける合理的な選択としては、起こったことはどうしようもない、と割り切った上で、その中で一番ましな選択をすることを心がけるということになるのではないかと思います。

 

 もちろん、上記は、言うは易し、というやつで、自分自身、いつでも「事前の想定」がうまくいくわけではなく、「割り切り」ができたというわけではありません。様々な人が様々な思惑に基づいて行動しているこの世界においては、事前の想定を超えたトラブルに遭遇するときもあり、割り切らなければと思いつつも、理不尽さに腹が立ったり、動揺したりして、冷静さを欠いていると感じることもなくなりません。そんな時には、冒頭の運転適性テストのことを思い出すのです。そして、可能な限り、それに関する重要な判断を先延ばしにできるかを一番に考えるようにしています(また、事故を起こしてしまいそうでもあるので、トラブル対処のために、どこかに移動しなければいけないときでも、自動車の運転を避けるようにもしています。)。それが完全にうまくいったといえるかどうかはともかく、とりあえず、私が生物的な意味でも社会的な意味でも死んでしまったりすることなく、ここまでたどり着けた一因には、あの時の運転適性テストの結果に助けられた部分があるように思われるのです。

 

 ところで、先日、ふとしたきっかけで、医学的な検査を受けることになった結果、服用すべき薬が増えてしまいました。それ自体は、やむを得ないと思っているのですが、ふと不安になり、献血センターに電話で問い合わせをしたところ、私は今回増えた薬の服用を続ける限り、もはや献血ができないことが判明しました。年齢制限や、たとえばがんのような大病を患うといった理由以外の理由で献血ができなくなることは、「事前の想定」を超えていましたし、自分が無力感に苛まれているときでも、多少なりとも世の中の役に立っていると思わせてくれ、活きたB型肝炎ワクチン製造機という大役を与えてくれたきっかけともなった献血が一生できなくなったことをすぐに「割り切る」のは難しく、献血センターの方には若干感情的な反応をした上、とりとめのない質問までしてしまい、電話を切った後、くだらないことで時間を取らせてしまったと反省させられました。

 などと、事前の想定と割り切りの重要性を再度認識させられた本年の年の瀬でしたが、この苦い経験を業務に生かしてより良い弁護活動ができるよう尽力してまいります。

 

 来年もまたどうぞよろしくお願いいたします。

 

ブログ

前の記事

頼る勇気