名は体を表すのか?―ある法律家の物語

  

 「名は体を表す」という言葉は、人々が名前からその人の性格や運命を読み取ろうとする古来からの試みを示しています。この格言自体は、過度に単純化された見方であるようには思います。例えば、私の名前「陽平」は、字面だけからすれば、陽気で平和的な性格を連想させますが、実際の私は控えめに言って、そのような性格からはかけ離れています。名前負けしていると言われることもあります。

 しかし他方で、この名前は私の人生や職業選択に少なからぬ影響を与えてもいるのです。

 そんなことで、と驚かれるかもしれませんし、もちろん、その一事をもって決断したというわけではありませんが、「ようへい」という発音が「傭兵」に通じることに気が付いたことが、私が司法試験を受け、法律家の道を歩むきっかけの一つとなりました。すなわち、私にとって、傭兵とは、報酬を受け取って他人のために時には命を懸けて戦う者であり、この比喩を通じて、私は弁護士もまた、依頼者のために報酬を受けて戦う「傭兵」のような存在であると考えるようになったのです。

 さらに、一見それとは関係のない裁判官への道を選んだのも、傭兵としての(勝手な)使命感からでした。実際、司法試験に合格し、研修を受け始めるまで裁判官になろうとは全く思っていなかった私が裁判官の道を選んだのは、修習生時代に教官から裁判官への道を勧められたからです。もちろん、いくつかの打算的な考え方がなかったとは言いませんが、この時も、自分の望みとは異なる道であっても、他人からの要請に応えることが傭兵の役割だと考えたことは、私が裁判官になるという決断を後押しするものでした。

 裁判官になった後、思いもかけず、石垣島やカンボジアへの赴任を打診されましたが、これについても二つ返事でこれを了承しました。特にカンボジアへの赴任を打診され、その場で行くと即答したのは、当局にとっても驚きではあったようで、一日考えてもよい、と言われたことを覚えています。さらに、種々の事情から実現はしませんでしたが、治安の悪い途上国での国際会議への参加を打診された際にもこれを受諾しました。これらの経験を通じて、そして、おそらく石垣島やカンボジアでそれなりに楽しい経験をしたことで、私は、他人の要請に応えることの価値を学習し、信念が強化されたのだろうと思います。

 このように私の人生の進路と職業選択において、この名前は意味深い影響を与えているのです。名前は、一面では、私たちに与えられた単なるラベルではありますが、私の場合、名前から始まった一つの連想が、人生と職業の選択に大きな影響を与えました。私の留学生時代の日本人の友人にも、子供のころの英会話の教師に、(私の「ようへい」という名前同様に)外国人にも呼びやすい名前だと言われたことが、英語学習に本腰を入れたきっかけだったという人がいます。あるいは、具体的な例を出すのは避けますが、家庭裁判所で離婚事件や少年事件を扱った際に多くの子の名前を見てきた私としては、やはり、命名にはそれなりの意味があるのではないかという事例にも多く接しました。そういう意味では、命名というものは少なくとも単なるラベルにとどまらない場合もそれなりにあり、そのような意味で、「名は体を表す」という言葉にも、一ひねりした真実味があるような気さえします。

 などと、チャットGPTの力を借りて、それっぽく書いては見ましたが、私の親も、まさか私がこんな下らないダジャレのような思考とよくわからない「弁護士観」の組み合わせにより、モノつくりに価値を見出す父方の家系からはおよそ価値を見出しがたい法曹という職業を選んだとは思ってもみなかったことは間違いありません。ぞんな訳で、今後子供に命名する予定の方は、名前のいかなる要素が、どう影響するのかわかりませんので、何卒お気を付けください。

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