訴訟の神髄

 裁判官は原則として5年間の経験を積むまでは、合議体の一員としてしか訴訟を取り扱えません。合議体の他の裁判官とのディスカッションなどを通じて、事件の結論の導き方や裁判の進め方などを学ぶことが期待されているといえるでしょう。また、特定の事件を離れても、同じ部にいる先輩裁判官からは薫陶を受けることもよくあります。

 特に和解の進め方などについては、事物の性質上、暗黙知にならざるを得ない部分も多いため、多くの方から話をうかがいました。判断者である裁判官が和解を勧試すること自体様々な意見がありますが、ともあれ、和解が上手だ、と言われる裁判官などのお話は、非常に参考になったことを記憶しています。

 なお、現在の裁判所は知りませんが、私が駆け出しの裁判官だったころの裁判長格の裁判官(自分よりも、20年から30年先輩であることはざらです。)は良い意味でも悪い意味でも個性が、豊か、というか、言葉を選ばずに言えば強烈な方も多くおられまして、そのことを強烈に印象付けられたことがあります。

 具体的な内容はもちろん書けませんし、実際問題忘れている部分も多いのですが、私が、当時、ある事件の進め方について悩み、裁判長に相談したところ、その方からは、「Aというやり方以外しかないだろう。」といわれました。理由も色々と伺った結果、私はなるほどそういうものか、と思って納得していたのですが、懇親会か何かの際に、他の部(私の初任は東京地裁だったので裁判長クラスの方が多数おられました。)の裁判長と話をしていたところ、(私から、他の裁判官が、Aというやり方がよいと言っていたことを聞いたわけではなく、偶然、同様の局面でどうすべきか、という話題になって)「Aというやり方をする奴は馬鹿だ。Bに決まっている。」(雑談で出てきた話なので、やや乱暴な言い方ですが、本当にこのとおりおっしゃったように記憶しています。)と言われたのでした。

 裁判官になりたてのころは、先輩裁判官というのは、わずかキャリアの差であっても、当時の自分が知らないことを色々と知っていて自信に満ち溢れているように見えていましたし、まして、裁判長クラスの方などは、たとえキャリアを積んでも、自分自身が及ぶべくもないような法律の神髄とでもいうものを知っているようにも見えていました。しかし、必ずしも唯一無二の正解があるというわけではなく、最後は、他のやり方は愚かだ、と思えるほどに、考え抜いた上で、自分の信念に従って判断するしかないのだ、ということを認識させられた印象的な思い出です。

 弁護士についても似たような部分があるように思います。個別の事案において、依頼者の最善の利益を追求するという点について唯一の正解というものはなく、少なくとも、予めそれがわかることはあり得ないでしょう。

 新年から仰々しいタイトルを付けましたが、要するに、訴訟の神髄というものはそういうものはないのではないか、というのが現状の私の結論です。

 もちろん、ある程度は、王道とでもいうべきものはあると思いますし、様々な選択肢やそこから一般的に想定される結果を知っておくことは重要かと思います。私自身、裁判官経験があるという、弁護士としてはやや珍しい経歴を有しており、それなりに経験を積んできただ自負もありますが、それに安住することなく、日々研鑽を積みたいと思います。依頼者の皆様方に置かれましては引き続きよろしくお願いいたします。