記憶と五感
そういう読み方は邪道という方もおられるかとは思いますが、僕は割と音楽を聴きながら本を読みます。もちろん、音楽が集中の妨げになることもあります。そういうときは、どちらかをやめて一方に集中するのですが、何かの具合がうまくいくと、むしろ没入感が増し、ときには、ヘッドホンで聞いていた音楽が止まっているのにも本を読み終わっているということが起きたりします。うまく説明できないのですが、文体のリズムと音楽がちょうど合うと感じられるときにそういうことが起きるのではないかと思います。そういうときは、頭に、集中力を使った心地よい痺れが残っていてなかなかに気持ちの良い体験であるためか、なかなかやめられません。
そういう読み方をしてきた副作用として、その本と音楽とが記憶の中で分かちがたく結合することがあり、音楽を聴いていると、本のことを思い起こし、本を読んでいるとその音楽のことを思い起こすという組み合わせがいくつかできてしまっています。
前置きが長くなりましたが、僕の中のそんな組み合わせの一つに「家畜人ヤプー」とRed hot Chili Peppersのアルバム「californication」があります。
家畜人ヤプーは、ずいぶん古い本なので若い方はご存じないかもしれませんが、実は法曹界に若干の因縁のある作品です。というのは、家畜人ヤプーの著者である沼正三はいわゆる覆面作家なのですが、その正体と目されている候補者の一人が、倉田卓次さんという(元)裁判官なのです。そのような説が唱えられた背景には、いくつかの状況証拠と併せて、倉田さんの法律以外の分野についての博学ぶりと、裁判官という、抑圧的、禁欲的であることを期待される立場にあったことが、上述した家畜人ヤプーの衒学的かつ倒錯した性的志向を扱った内容に結び付き、沼正三=倉田卓次という説に一定の説得力とスキャンダラスな面白みを与えたからでしょう。私が家畜人ヤプーを読んだのはとある先輩裁判官に沼正三=倉田卓次説とともに、家畜人ヤプーという作品を教えてもらったからなのですが、実際に沼正三が倉田さんであるか否かはともかく、そう思って読むと味わいが増すといえなくもなかったですし、あまり選り好みをしない私としては面白く読みました。
ともあれ、ペッパーズのCalifornicationは有名な作品なので、今でも時々街中で耳にする機会があります。先日も珍しくこじゃれたカフェに入ったところ、Californicationがかかっていてとっさに家畜人ヤプーを連想してしまい、なんとなく居心地の悪さを感じました。もっとアングラな曲とともに読むべきだったと思わなくはないのですが、家畜人ヤプーの内容と、全体に気怠い雰囲気のCalifornicationが妙にマッチしてしまっていたので仕方がないところでしょうか。B級趣味をお持ちの方がおられましたら、ぜひお試しください。意外に合うのではないかと思います。