日米の「裁判官」観

  日米では大きく法文化が違うというのはよく言われることで,裁判官の社会的ポジションも似ているようで結構違うような気がします。

 もう10年以上前になりますが,僕が,裁判官としてテキサスに留学していた時に経験した日米の「裁判官」観の違いを感じる出来事がありました。

 その日,僕はアジア系の留学生の友人たちと,ショッピングモールにいました。留学したてのころで,確か,皆でテキサスの気候にあった服を買いにいったのではないかと記憶しています。

 アメリカではしばしば非常にフレンドリーな店員に出会うものですが、その日も僕たちを接客した若い黒人の男性店員もずいぶんフレンドリーで、そんな彼のキャラクターと友人たちの社交性とに助けられて,アメリカに来たばかりで英語にもあまり自信のなかった僕もだいぶ会話に参加することができした。今となっては前後の脈絡は憶えておらず、結構唐突に言い出したような気もするのですが、そのとき,友人の一人が、僕は裁判官なのだ、といったのでした。友人には,何でそういうことをいうかな,と思ったように記憶しているのですが、ともあれ,それを聞いた彼のリアクションは,僕が想像したものとは全然違い,何かしら感嘆したような声を発した後,満面の笑顔で僕に握手を求めてきたのでした。思わず,彼の手を握り返したのですが,大変に驚いたのを今でも覚えています。

 日本では,そもそも,見知らぬ人に自分が裁判官だと紹介されることなどほとんどありませんが,おそらく,こういう場合、驚かれながらも,やや丁寧目の社交辞令で接せられることが多いように思います。また,結構定番のリアクションとして、冗談めかした調子で「お世話にならないようにしないといけないですね。」などと言われることも多いですが,いずれにせよ「敬して遠ざける」というような扱いをされているように感じることもしばしばです。アメリカ人は日本的な感覚からするとしばしばリアクションが大げさなことも多いので,割り引いて考える必要はあるとは思いますし,制度の違いに起因して,僕がアメリカではありえないような若い裁判官だった驚きもそこには含まれていたのだと思うのですが(と前置きをするのも日本人らしいですが),僕が裁判官だと聞いて、瞬間的に、子供がウルトラマンや戦隊もののヒーローでもみるかのような態度で僕に接した彼を見て、アメリカ人が裁判官を見る目は日本人のそれとはずいぶん違うことを実感した出来事でした。

 昨年,アメリカ連邦最高裁判事であったルース・ベイダー・ギンズバーグ氏が亡くなられたことがアメリカで大きなニュースになりました。また,彼女は,生前からもポップカルチャーに登場するくらいに人気がありましたが,同じようなことが日本で起こるとはちょっと考えられないような気がしますが,あのときのことを思い出すと、論理に飛躍があることは承知しておりますが,RBGの人気ぶりやニュース性というのは,アメリカではそういうことが起こりうるものとして、皮膚感覚として理解できるような気がするのでした。

ともあれ、あの日、異国の地でナーバスになっていた僕を,意図せず勇気づけてくれた彼が元気であることを祈っています。

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