悲観と楽観と
何かに挑戦しているときなどは、あまり、大言壮語を吐かないようにしています。そういうことをすると、逆の結果になる(要するに失敗する。)ことが多いような気がしてならないからです。
自分自身の失敗や不運、傲慢を並べるのも恥ずかしいので具体的に列挙することはしませんが、「うまくいきそう」とか、「ここまでくればうまくいったも同然」というような趣旨のことを周囲に吹聴したが、結果としてうまくいかずに気まずい思いをした、という経験は恥ずかしながら実際に何度かあります。
これは、いわゆる印象論というやつで、予測と結果の相違が大きいからこそ、単に、印象に残っているというだけなのかもしれません。あるいは、大言壮語を吐くときというのは、(少なくとも自分の場合は、)無意識的であっても、過信があったり、逆に、不安であるが故に自分を鼓舞させようとする場合が多く、そうであるからこそ、大言壮語をする場合には、実際に失敗することが多いのではないかと考えたりしています。
そして、以前にも述べましたように、弁護士は、良い結果を請け合うことはできませんし、裁判官も、正式な判断を下す前に、軽々に事件の見通しを告げることもはばかられる仕事ですので、そういう職業に就いたことで、良くも悪くも、私の傾向はさらに強化されてしまったような気がします。
他方で、事案の流れを想定して、それに対する考えられる対応をしたのであれば、「どうせうまくいかない」などといっても仕方がないばかりか気が滅入ってしまいます。そういうストレスを溜めることは体によくないですし、自己暗示的に悪い結果が出てしまいそうな気がして、こちらも避けるようにしています。
そんなわけで、基本的に、楽観と悲観のバランスを取ることが大切であるような気もする一方、そんな風に生きていて面白いのだろうか、一喜一憂する方がむしろ人生の喜びを大きくするのではないか、という気もしないではなく、そんなことを考えていると、自分は、賢くあろうとして、人生を面白くするチャンスを見逃し続けてきたのかもしれない、という悲観的な気持ちが芽生えてきて、どうしたらよいのか分からなくなっていきますが、それでも人生は進んでいきますので、それを認識しながら生きていくしかないのかもしれませんが、それは結局のところ、過度な楽観と悲観を排した態度といえるのかもしれません。
面白いと思って書いてみたのですが、面白くない(どころか若干怖い)かもしれません。けれど、私は、落ちを失敗したなど悲観することもなく、かといって、もちろん浮かれることもなく、気分転換にこのブログを書き続けていこうと思います。