裁判官と転勤

 経歴でも紹介させていただいたとおり、私は裁判官時代、日本国内外のいくつかの場所で勤務してきました。具体的に申しますと、東京を振り出しに、テキサス留学の後、半年強の帰国を挟み、カンボジア、愛媛県松山市、石垣島、そして東京に戻るというものでした。そして、これもまた以前も少し書いたこともあるように、転勤した場所はいずれも何らかの縁を感じるところばかりでした。具体的に申しますと、テキサスは、私が中学生以来のファンであるダラスカウボーイズというアメフトのチームの本拠地、愛媛県は敬愛する夏目漱石氏の赴任先で小説「坊ちゃん」のモデルとなった地であり、(石垣島ではありませんが)沖縄はCoccoの出身地、石垣島から戻った後の東京での官舎は、夏目漱石氏の生誕の地である「夏目坂」にあったのです。

 このように申しますと、割と希望どおりの転勤をしてきたと思われがちなのですが、(結果としてよかったかどうかは別として、)その時々では必ずしも事前の希望にそうものではありませんでした。例えば、私が裁判官任官当時から留学を希望していた理由は、敬愛する夏目漱石氏が、イギリス留学で神経衰弱に陥ったというエピソードを基に、自分も真似たいのでイギリスに行きたいと思ったのがきっかけでして、アメリカ留学にはさほど興味がありませんでした。留学先がアメリカと分かったときは、若干不満めいた気持ちを持ったのも覚えています。

 次に、わずか半年の帰国を挟んでカンボジアに赴任することになったのですが、私はカンボジアに長期派遣された最初の裁判官でして、事前の希望聴取の際の候補にも、カンボジアは選択肢になく、全くの予想外の異動でした(当時、裁判所は、ベトナムで行われていた法整備支援プロジェクトに裁判官を派遣していたので、法整備支援を希望した場合、ベトナムに行く可能性があることは認識していました。)。

 そして、裁判官の転勤は、大中小の規模の都市をおおむね順番にめぐるのが通常でしたので、途上国であるカンボジアを小規模都市に準じるものと考えると、次は、高裁所在地あたりにいくかな、と思っていたところ、愛媛というのも意外でした。また、時効だと思いますので書いてしまいますが、私は、当初、事務的な手違いで、次の異動先が大阪だと聞いており、その意味でも、愛媛だと聞かされた時はややがっかりしました。もちろん、夏目漱石とゆかりがあるといえばありますが、愛媛は夏目漱石自身好きになれずにすぐに立ち去ったところではないかと心の中で少しだけ毒づいたことも覚えています。

 また、その次はさすがに大規模都市であろうと思っていたところ、石垣島というのも意外でした。沖縄を希望していたことは事実ですが、私が赴任するまでは、石垣島というのは、前例的には東京か大阪から異動するところだったからであり、おそらく、松山から石垣島に異動した裁判官は私が初めてだったからです。

 以上のとおり、私は、カンボジア赴任、愛媛県から石垣島という二度の珍しい異動をしておりますところ、これらは転勤話で盛り上がることのある裁判官の中にあっても、なかなか珍しさでは負けない良い「ネタ」ではありました。また、アメリカ、カンボジア、石垣島などは、日本人がドメスティックに生きていると、なかなか住める場所ではありませんので、刺激的で楽しかったです。その上、関東出身の私にはなじみがあり、当然近在の友人も多い東京に2度勤務していることも併せ考えれば、私の異動は、全体としては恵まれたものであり、退官時には、もうこれ以上楽しい異動はないのではないかとさえ思うほどでした(逆に言えば、そのようなタイミングで退官することは不義理ではないかとも若干思いました。)。 

 しかし、もちろん、すべての裁判官が納得のできる異動ができる保証があるわけではありません。住めば都、という言葉もありますが、実際問題、土地柄が合わないということもあります。また、裁判官自身は異動がつきものであることを覚悟しているとしても、親の介護、子供の進学などの事情で家族としては転勤に耐えられないということも生じ得ます。裁判所もこうした点に配慮が全くないとは申しませんが、他方で、内部にいた身からすれば、個別に十分な配慮がされているようには思えず、その意味で、この点は非常にシビアな問題で、ミクロな運の良しあしだけでは片づけられない部分もあるように思います。

 近時、裁判所はリクルートに大変苦労しているだけでなく、若手裁判官の離職が増加しています。その理由としては様々なことがいわれていますが、収入面と並んで、広域異動の存在がその原因の一つではないか、ともよく言われているようです。他方で、裁判官の広域異動を維持しているのは、全国的に均一な司法サービスを提供するといった意味合いもありますし、そういった建前を抜きにしても、仮に全裁判官の希望を通すと、地方都市における現在の陣容を保てないのは現実だと思いますので、仮に広域異動が裁判官の離職の大きな影響だということが実証されているとしても、この解決はかなり難しいのではないかと思います。

 こういう問題は、日本の人口減やそれに伴う国力低下とも背景を同一にする問題であるようにも思いますが、裁判所が、裁判所が有為な人材を引き付けられず、十分な紛争解決機能を維持できなくなっていくとすると、利用者である国民全体にとってもデメリットは大きいように思いますし、生業としている弁護士である私にとっても決して他人事ではありません。

 先日も、現役の裁判官の方たちと会う機会があり、少しそのような話も出ました。私自身、退官した身であり、上述した裁判所の機能低下にほんの少しとはいえ寄与したという負い目もありコメントが難しかったのですが、上述のとおり、問題意識がないわけではないので、特に提言ができるわけでもないにもかかわらず、このようなブログを書く次第です。

 なお、私の退官については、口減らしができて組織にかえってよかったという評価もあり得るでしょうが、そのような実証的なデータはありませんので申し添えます。

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