裁判官の「心証」形成について(第1回)

1 はじめに
 本ウェブサイトの私の紹介ページにも書いてありますが、私は弁護士になる前に15年間の裁判官経験を有しております。その中では、外国(留学及び法整備支援)や最高裁事務総局にいて、事件を担当していなかった時期もあるのですが、これらを除いた期間については基本的に民事裁判をメインとして担当していました。
 このような経歴を有しておりますことから、ご相談に来られる方から、こういうことを主張すると、裁判官であればどのように判断するか、裁判官の「心証」を害さないか、といったご質問を受けることもしばしばです。
 実際問題、裁判官といっても、背景やキャリアは千差万別で、その結果、訴訟指揮や心証形成のあり方についても個性が出てきますので、一概にこうだと言い切ることはなかなか難しいです。
 ただ、裁判官の「心証」に関してしばしばご質問をいただくことについて、これまで、自分なりに考えてきたり、周囲の裁判官などと議論をしてきたりしたところに照らして、多くの裁判官はこう考えるのではないか、という私なりの考え方もありますので、本日は少しその点についてご説明したいと思います。
 なお、以下では、主として民事訴訟における「心証」について述べており、刑事訴訟等を念頭に置いておりません。
 また、いずれにしましても、具体的にどのように対応すべきかという点はケースバイケースということにはなりますのでそのつもりでお読みいただければ幸いです。

2 総論~心証とは何か
 ① 「心証」と「印象」
 そもそも、法律の世界では、「心証」とは、「手続上、認定すべき事実の存否についての内心の認識や確信の度合い」といったような意味で使われます。持って回った言い方ですが、例えば、貸金返還請求をする原告であれば、「お金を貸した」という「事実」を認定してもらう必要がある(ただし、それだけでよい訳ではありません。)わけですが、裁判官が、そういう事実があったとどの程度の確信をもっているか、というのが「心証」というわけです。
 ちなみに、民事訴訟においては、事実を立証しなければいけない側が、通常人が疑いをさしはさまない程度の「高度の蓋然性」があることを立証する必要があるとされており、「合理的な疑いを超える程度の確信」を求める刑事訴訟よりは、要求される心証の程度は低くなっています。人の確信度合を数値化すること自体難しいので、どれくらい違うのかというのはなかなか説明がしづらいのですが、あえていうと、民事訴訟において求められる心証の程度は、十中八九確からしいという程度という風にいわれることが多いかと思います。
 他方、一般的には、「心証」というのは「心に受ける印象や感じ」といったような意味で使われます。一言でラフに言えば、「印象」ということになるでしょう。
 そして、訴訟に勝つか負けるか、という点においては、もちろん、前者の意味での「心証」が大事です。ただし、中立の立場にある裁判官は、基本的に、こういうことをすれば、「心証」がよくなると具体的に教えてくれるわけでもありませんから、当事者としては、裁判官の「心証」を予想しながら、手続を進めることになります。
また、具体的な事件で、どの事実についての「心証」を良くする必要があるのか、というのはときに難しい問題ではあります。ただし、そうであるからと言って、裁判官は、「印象」で裁判をしてよい訳ではありません。したがって、まずはその意味での「心証」と「印象」の違いを押さえておいていただきたいと思います。

② 「印象」が「心証」に与える影響
 一般に、裁判官に悪い「印象」を与えると「心証」も悪くなるのではないかといった疑問も出てくることと思います。
 この点、少なくとも日本において、上記の点について、実証的な研究がされたといったことは寡聞にして存じ上げませんので、「厳密には分からない。」というのが中立的な回答ということになるかもしれません。そうである以上、少なくとも印象を悪くしないような合理的な努力をすべき、というのが保守的な対応ということにはなるかもしれません。
 しかし、裁判官がある判断に至った理由は、最終的には、判決に記載されることとなりますが、判決には、当然のことながら、「印象」が悪いといった理由は書けません。
 むしろ、経験のある裁判官ほど、「心証」を形成する際には、常に判決においてどのように書くことができるのか、自分の現在の「心証」に「印象」のみで判断している部分がないか、ということを考えている気がします。このような意味で、制度上も、「印象」のみで判断するということは難しいのではないかと思っています。
 そういう意味では、たとえば、提出すると約束したものについては、きちんと提出する、といったようないわば、社会人として当然のマナーを守ることを前提として、裁判官の印象を悪くしないかということをあまりに過度に気にする必要はないと思っています。
 なお、ある種の行為は、裁判官の「印象」と「心証」が同時に悪くなるということはあると思いますのでその点は注意が必要です。例えば、裁判官は、ある点に疑問を持った場合に、その点を明確にするように求める場合があります(これを求釈明といいます。)。
 例えば、先ほどの貸金の例で言えば、お金を貸した理由は何か、お金を貸した相手とはどのような関係か、というようなことを尋ねられたりする場合があります。
 これは、金額や経緯にもよりますが、裁判官は、人は、基本的には、他人にお金を貸すからには、何かしらの理由があったり、それなりの人間関係があったりするものだ、と思っているからです。
 あるいは、そんなことはお金を貸したかどうか、の認定には関係ないと思われるかもしれませんが、裁判官は必要だと思って聞いているわけですから、このような求釈明に対して、あやふやな回答をしたり、回答を拒んだりする行為は、裁判官の「印象」を悪くするでしょう。加えて、お金を貸したといっているのに、貸した理由も答えられないということは、本当はお金を貸したという事実がないからではないか、と認識される可能性、すなわち、「心証」を悪くする可能性が否定できないものと思われます。

3 小括
 以上のとおり、まずは、上記のような意味での「心証」と「印象」との違いについて説明をさせていただきました。上述のとおり、ご相談において、裁判官の「印象」を気にされる方が少なくありませんので、まずは上記2つの概念の違いについて押さえておいていただければと存じます。
 次回以降、もう少し具体的に、訴訟の各段階において、裁判官がどのように事案を検討していると考えられるかについて、ご説明したいと思います。

裁判官の「心証」形成について(第1回)” に対して2件のコメントがあります。

  1. 芝地和宣 より:

    地裁判決を不服として高裁へ上告
    そして第一回公判日、所が抗告人側の
    代表者は出廷せず。結局は、弁護士が
    代理人として、従前の主張を述べただけ
    私は裁判官も人間ですから、多忙な中
    不服申立をした代表者が出廷しない
    とはどういう事と印象面で悪印象をは否めないと思います。判決結果は公判日後
    1カ月未満で抗告人側は敗訴
    もちろん争点上での点もあるが、やはり
    裁判官の印象面は大事な事と考えます
    だって、あんたら、不服申立したんだろ
    ならば戦う気持あるんか?
    こっちは多忙なんだ。
    この公判日に抗告人代理弁護士が従前主張した後に即、和解勧告をこの弁護士指示してます
    印象面は大事な要素と考えます
    いかがでしょうか

    1. 管理者 より:

       個々の裁判官がどう考えるかはもちろんわかりませんが、前提として当事者の出頭の有無は判決に直接影響する事情とはいえないと思われます。
       また、統計上のデータは持ち合わせてはいないものの、感覚として、実務上、多くの事案では代理人弁護士が付いている場合に当事者(法人代表者を含む。)は来ていないと思います。
       高裁第1回期日において、和解をにらんで、特に指示がなくても当事者を同行するという弁護士はおられますが、そうされないからといって、私見では、特に印象が悪くなる事情とは思えないようには思います。
       なお、高裁では1回で期日を終結したり、和解の勧試が行われるということは非常にしばしばあることです。

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